トップページ

2005年5月24日 (火)

アナログ思考のすすめ

最近は情報化社会を迎えまして、デジタル化が大流行であり、何事も二極化して考える向きがあります。○+と-とか、○と×とか、善と悪などどちらかに割り振ってしまうわけです。それでは、見方を変えて物事をアナログで考えると頭が柔軟になることがあります。例えば善悪では、「悪とは少ない善である」と考えてみるとか、動物と人間であれば、「動物とは無限に小さい理性をもった人間である」とか、植物と動物であれば、「植物とは極めて少しの意識をもった動物である」というような見方をしてみる。生と死であれば、「死とは生の減少である」、なにが減少するかといえば、どうでしょう、自我の意識が減少するのでしょうか? 「生とは死の状態での意識(生まれる前の意識)の増幅である」、肉体も分解して、分子や原子になってしまうのでしょうけれども、このような、アナログ的、見方をすると、寛容な精神の持ち主になれるかもしれないと思います。
今いいましたようなことで、「世界には種類の相違というものはなく単に度合いの相違があるだけである」と考えた哲学者が、ライプニッツ(1646-1716)でありまして、連続の法則といっております。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「三性(さんしょう)の理」

仏教哲学用語に「三性の理」という語がある。物事には善悪両面があるといわれるが、森政弘によるとむしろ、元来、善でも悪でもない無記という存在であって、人間にとって都合の良いものは善、都合の悪いものは悪になるだけであるという。「客体に善悪の二面があるのではなく、無記の一面しかない。それを善にもし、悪にもするのは主体である人間しだいだというのである」と。たとえば路上に落ちている「石」は人に向けて投げつければ凶器(悪)になるが、木の実の殻を割るのに使えば有用な道具となる(善)。このような関係を表にすると「三性の理」の表が出来上がる。

       [善]            [ 無記]               [ 悪]
 木の実の殻を割る            石            人に投げつける
 指が器用になる             箸                         使うのが難しい
  頭をつかう                               そろばん                    練習がいる
  間違いなく出会える                      時計                       不自由
  成長し育つ                              生まれる                    死への宣告
  畏敬(畏)                                   死ぬ                       恐怖(恐)
  宇宙の生命への回帰                                                自己の生の徹底的否定
  現世からの解放・自由                                               現世からの徹底的否定

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分が今ここにいる

自分はここにいる。目を通して外界が見える。あなたもあなたの目を通して外界が見える。そして自分自身の目そのものを自分で見ることはできない。それぞれに世界が違う。この自分がいる不思議。この自分の体という場合のこの自分とは何か。あなたもあなたの体を自分の体と思っているが、その自分とは何か。この不思議は何のゆえか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年5月22日 (日)

「この自分」がいる不思議

en-2悠久の宇宙と歴史の現在のこの一点に存在する「この自分」の存在の不思議。「この自分」を今、存在せしめた、そして、ありとあらゆる生物、物質が存在している宇宙の絶妙なからくりの不思議。自分自身の意識の源泉は何か。何者か。この宇宙の意識、大生命の活動のあらわれが、この現実のこの一瞬一瞬である。深遠で悠久のこの宇宙に対して畏敬の念を禁じ得ない。胸の高鳴りを押さえることができない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ